エッセイのページ

MY song of my life 名古屋牛乳の歌

 大阪に住んでいて、私のホームページを見た人から、名古屋牛乳のCMソング聴きましたよ!と、言われびっくり。なんで?ここは大阪なのに何処で聴いたの?と、問えば、インターネットだと言う。
さっそく、検索してみると、おおっ そこには40数年前の私が居るではないか!
オリジナルよりも、テンポが少し速くなっているのが気になるけれど、正真正銘、私だ。懐かしのCMソングか・・・確かに。マンボというリズムも実に懐かしい。作曲をした井垣シュウちゃんや、収録の時一緒だったギターのトミちゃん達は今、どうしているんだろう・・・。あれやこれやが走馬灯のようにくるくる回り、思いは一気に40数年前にタイムスリップした。

 当時、名古屋駅前に『ラテンクォーター』というジャズ喫茶があった。
そこでは、モダンジャズ系とスイング系のコンボバンド、そしてハワイアンバンドが演奏していて、私も毎日ジャズを歌っていた。歌のバックをいつも盛り上げてくれた、ヴァイブのツノさんとアルトサックスのサッちゃんの演奏テクニックは印象深く、今も記憶のどこかに存在している。
一日の内、早い時間帯はここのステージに立ち、夜は、『ミカドシアター』と呼ばれていたクラブのフルオーケストラバンドで歌い、深夜は、『トップスリー』というナイトクラブで歌うという、ジャズ漬けの毎日だった。
売れない頃の、どん底を経験しているので、歌う事で忙しいのは喜びえあり生きがいでもあった。
ここでは、後に、一世を風靡したあの、ピンキーとキラーズのメンバー、ハマちゃんと一緒だったのも楽しい思い出だ。
又、ピンキーのお父さんには仕事でいろいろお世話になった。あの方は、ショウの名司会者で、話術がすばらしく、観客が飽きてくるころには、ホワイトボードに面白い漫画を描き沸かせたりもして、業界では有名な人だった。
ピンキーが、作曲家いずみたくさんにレッスンを受けていて、もうすぐデヴューだと喜んでおられたのを覚えている。

 そんな頃だったと思う、なぜか私に、名古屋牛乳のCMソングの依頼があった。
作曲をしたピアノの井垣シュウちゃんとは、気心の知れた仲だったので、収録はあっという間に終わった。そして好評だった。
それからである。毎日毎日テレビで名古屋牛乳のCMソングが流れた。
私の顔を見ると誰もが ♪名古屋牛乳飲んでるの♪ っと歌われ、嬉しい反面、私ってジャズシンガーなのにな〜という思いもあった中で、長島スパーランドがオープンした時の初代CMソング、7up、大名古屋ビルの・・・と依頼が続いた。
その後、名古屋牛乳の歌をリニューアルしてしばらく歌っていたが、やっぱり最初の曲の方が良いとなり、現在に至っているようだ。

 結婚して40年。ジャズを歌わなくなって40年になる。
その間、カラオケに誘われても行ったことがなくハミングすらしなかった。私の中で、歌うという行為は、人にちゃんと聞いてもらいたらいたいという思いがあり、楽しめないからだ。
ジャズライヴやコンサートも行かなかった。というよりも、行きたくなかったという方が当たっている。あのステージには自分が歌っていたんだ!との思いが、吹っ切れていないのかもしれない。
残念なことに、あの頃は簡単にCD等を自分で制作出来る時代ではなかった。唯一自分を思い出せる曲といえば、NHKのテレビ番組から録音した、「Misty」「The man I love」「Lullaby of birdland」「Septmber in the rain」「Someone to watch over me」の5曲だけで、誰にも聴かせたことがなく私の宝物になっている。

 名古屋牛乳のCMソングを通して、改めて自分の過去と向かい合うことができ、人生の歴史を感じてうれしくなった。
40数年も存在し続け、人々の耳に残っているなんてすごい事。これはまさに、私の人生のヒット曲かもしれない。
My song of my life 名古屋牛乳の歌が、これからも、ずっとずっと永久に歌い継がれていって欲しいと心から願っている。

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