エッセイのページ


 父の37回忌法要のため、久しぶりに名古屋の実家へ戻った。庭には、父が植えた桜が満開で、見上げるような大木に成長していて、月日の経過に感無量だった。
思い起こせば、、私が切迫流産の危機で入院中だったある日、主人が突然病院へ来て、「ちょっとだけ家に帰るから」と言った。私が入院する時、父が病床に就いていたのを知っているので、ひょっとしたら容態が悪くなったのかと、うろたえた。
聖霊病院という、カソリック系の病院に入院していた私は、シスターとドクターに抱きかかえられて車中の人となり、家に近づいて言葉を失った。遠くからでも分かる白と黒の忌中の幕が目に飛び込んできたからだ。それは・・・葬儀の真っ最中だった。
 三日後に、弱弱しく2360グラムの次女が誕生し、お爺ちゃんの生まれ変わりだと、皆が言った。そう信じたかった・・・。
父も次女も、お互いを知る由もなく月日は脈々と流れ、病弱で生まれた次女は、父が植えた桜の木の如く元気に成長し、奇しくも彼女の夫が運転する車で実家に帰り、皆で父を偲んだ。

 昔の父と娘の関係はといえば、今のように友達感覚ではなかった。
父親というのは、絶対的存在で、怖かったイメージが強く、遊んでもらった記憶は薄い。
父は、自分が苦労をして築き上げた自動車修理工場を営んでいた。何人かの修理工さんと来客の応対で毎日が忙しく、その上、町内会長を引き受けたり自動車組合では理事なぞをする人で、家にはいつも人の出入りが多く、食事の接待をよく手伝わされたものだ。

 私が中学生になると、門限や交友関係、食事の躾が厳しくなり、自分の意思で何か行動をしようものなら、頭ごなしにだめだと言うのがすごく嫌だった
そんな頃だったと思う。
若い人はご存知ないだろうが、当時、天才少女ジャズシンガーと言われた江利チエミがいた。彼女が歌う『Come on a my house』を聞いた時、が〜んと、一発殴られたような衝撃を受け、父への大いなる反発だったと思うが、私はそれ以来、ジャズにのめり込んでいった。

 『ジャズのど自慢』という番組では、東海代表で全国大会に数回出場。『10人抜きのど自慢』では、名古屋で7人と東京で3人を抜き、見事に優勝するなど、現在のジェロさんがしたように、のど自慢荒らしをした。
そして、遂に、NHKのオーデションに合格して本格的にジャズの道を歩み始める事となる。
明治生まれの父は、私の事を「河原乞食」だと言って嘆き、まさか「歌うたい」になるなんて・・・とぼやいた。歌うたいは分かるが、なんで河原乞食なのか?今もって意味不明で、聞いておけばよかったと悔やんでいる。

 売れない頃は、自分の思いとは異なった安クラブのステージが多かった。
うまく歌えずブーイングをされ、打ちのめされて外に出ると、父がそこに居た。「バカな奴め」と、つぶやき、車のドアを開けてくれた。黙々と、お互いが何もしゃべらず帰途に着いたことが何度もあった。
どん底の経験が数年は続いただろうか。
ある日、JOCK、つまりNHK名古屋からお声がかかり、ジャズ番組の出演が決まり、初めて自分の名前が活字になり新聞のテレビ欄に掲載された日の喜びは、昨日の事のように覚えている。
父が、密かにいろいろな新聞を買いあさり、私の記事や名前を食い入るようにながめていたのを知っている。

 歌の仕事が忙しくなり、車が必要となった。
フェアレディとはいかなかったが、フアンシーレディという女性向きの車が、家の陳列場に有ったので乗ることにした。
勿論、父が助手席で監視役だ。
今のように、若葉マークの無い時代だったので、自筆で、『免許書取りたてにつきお先にどうぞ!』と、大きく書いた紙を貼っておきながら、後続車に追い越されまいとびゅんびゅん飛ばして、ひどく叱られた。又、右折したいのに、一番左の車線に来てしまい、ウインカーをピコピコさせてうろうろしているものだから、父は車から飛び降り頭を下げ、交通整理だ。
道路の溝に車輪を落としてしまったり、ライティングのまま下車してバッテリーが切れたり、トラックにぶつけたりと、父に面倒をかけたことは数限りなくある。にもかかわらず、すぐ乗れるように、いつもエンジンを温めたり窓拭きをしておいてくれた。

 やがて、主人と知り合い結婚となるのだが、結婚式が、非常識にも一番忙しい師走の12月15日と決めたのだ。!
新年を二人で迎えたいという、ただそれだけの我がままで、親戚縁者を煩わせたこととなる。それでも、父母は反対もせず喜んで承諾をしてくれた。
ただ一つ、父が首を立てにふらなかったことがある。ウエディングドレスの挙式は「いかん」と言うのだ。
父のたっての希望を取り入れ、文金高島田と白無垢姿で、伝統的な式を神社で挙げる事となった。パーティーは好きにしていいというので、ジャズライブ形式で、どんちゃん騒ぎをしようとなった。
 さて、神社で厳かに挙式が始まって、神主さんが祝詞を挙げ、雅楽のピヤ〜 ピヤ〜という音を聞いた時、吹き出してしまった。笑い上戸の私は、肩を震わせ、もうどうにも止まらない状態になった。ちらっと父を見ると、すごい形相でにらみ付けていた。
この話は、現在も度々話題に上り、皆で大笑いをする。
今回の法要もそうだった。始まって30分くら経った頃だろうか、そろそろ皆がしびれを切らす頃、お坊さんが「サンマンダラ サンマンダラ」と聞こえるお経を何度も唱えた。三万回も唱えなくても・・・と勝手なことを思っていたら、笑いが込み上げてきて、またまた肩を震わせる状態に陥り、ひんしゅくを買った。

 父は、再び私をにらみ付けていたんだろうか。
父さん知ってるよ! 末っ子の私を一番可愛がっていたんでしょ?
怒ったり、叱ったりも、愛情の表現だってことが、今、親になって分かったから。
親孝行ってしなかったよね。でも、面倒はいっぱいかけたね。それはね、父さんに対して甘えの愛情表現だったんだよ!
ずっと、ずっと、にらみ付けてていいよ。歳はとったけど、父さんから見ればいくつになっても娘なんだから・・・。
  








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