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エッセイのページジュンコの留学奮闘記(1)
☆ プロローグ ☆
長女のジュンコが交換留学生として、高校1年生の時にアメリカのハイスクールで奮闘した記録です。 現在は海外旅行も留学も当たり前の時代ですが、今から22年前の1985年代はそんなに容易な事ではありませんでした。 1ドルが230円くらいの時代で、治安の問題もあり、確かな交換留学制度を持ったY F U (Youth For Understanding) という組織を選びました。 1年間のホームステイは、お互いにボランティアでするというのが基本で、どんな家庭かどの州へ行くかは自分では選べないルールとなっていました。 中学3年生の時に留学試験を受け、合格後、出発までの1年間は、親子ともども異文化交流とはなんぞやに付いてのオリエンテーションを受けたものです。 我が家はホームステイ引き受けは初めてだったので、男の子か女の子か、どんな子が来るのか期待と不安でいっぱいでした。 とにかく、ジュンコはミネソタ州へ、我が家へはアラスカから16歳の女の子が来る事になりました。 この奮闘記は、当時大阪の千里中央で発刊していたタウン誌『こんせるぶ』で連載したものですが、この歳になると、我が家の歴史を自分の記憶の中にしっかりと留めておきたいと改めて思うようになり、少し手直しをして再連載をする事にしました。時代の流れを感じ、懐かしさで一杯です。どうぞ、最後までお付き合いください。 ☆ いってらっしゃい!ジュンコ ☆ 娘が、1年間のアメリカ留学を終えて帰国する日、可愛い子供に旅をさせた親としては、万感胸にこみ上げるものがあって、再開する最初の言葉がどうしても見つからない。 去年の夏に、複雑な気持ちで送り出してから1年・・・。 その出発前夜、娘と私は、何年振りかに床を並べて寝る事にした。 (注意する事は全て言ってあるし、あの5つの箱は航空便で送ればいい。忘れ物がないかもう一度考えてみた。よし、あとは明朝無事に送り出すことなんだわ。) ますます目が冴えて、時計の秒を刻む音だけがやけに大きく感じられた。と、その時、ウッウウ・・・と押し殺したような声がして、娘が、ぎゅっと手を握ってくるではないか! (まさか!この子が泣いている・・・) ぴんと張りつめていた気持ちがいっぺんに吹っ飛んで、どっと熱いものが胸にこみ上げてきた。 「大丈夫、大丈夫だよ」と、私もぎゅっと握り返したものの、彼女の気持ちは痛いほど分かっていた。 外側から、日本を見つめてみたいんだと娘自身が決めた事ではあったけれど、16歳の世間知らずが、風俗、習慣、言葉の異なる外国でする生活は不安だったに違いない。 (もしかして、この留学は間違っているのではないだろうか。ひょっとして、私自身の夢だったのではないだろうか。今なら止めさせる事もできる。留学生殺人事件も以前にあったし・・・。だが待てよ。半年間も話し合って決めた事ではないか。行け!行くしかないんだ。) あれやこれや思い巡らす内に、とうとう一睡もしないまま朝を迎えたのだった。 (時間に追われ、形どおりの挨拶を交わしてあたふたと送り出した同じこの飛行場に、帰ってくるんだわ。あの子が帰って来る!) 私はバラの花束を持って待った。 「お母〜さ〜ん!!」 娘は、顔を見るなり駆け寄って来て、懐かしさのあまり泣きじゃくる。私は、思いっきり強く抱き、無言の愛撫・・・ってな感じになるだろうと思い込んでいたら、な、なんと! 「Hi mom !」 ころっころに丸くなった健康的でたくましい娘が、あっけらか〜んと手を振っているではないか!リーバイスのジーンズにリーボックの黒い靴。耳には、3つものピアスをして。ああ 神様・・・。 「うわあ、太ったわねえ」 「あら、それを言わないでよ。私なんかは、うんと細い方だったんだから!」と、まあこんな具合に1年振りの再会劇は、涙、涙の浪花節ではなくオペレッタと相成ってしまった。ついでに付け加えれば、用意していた花束を渡すチャンスを無くし、感激的な対面式をカメラで撮ってねと主人に頼んでおいたものの、これも又、ノーチャンス。 「アメリカ、どうだった?」 「よかった。帰りたい!」 行きたいではなく、帰りたいだと?ここにこの私が居るというのに。 しかしまあまんざら悪い気持ちではない。「帰りたい」のこの一言は、彼女の充実した1年間を物語っているんだから。 得々と、アメリカンライフを話す彼女の表情は、もう、以前のように甘ったれの子供ではなかった。 耳の遠くで、華やいだ声を感じながら、私はどういうわけか深い眠りに引き込まれていってしまった。一晩中、1年分の事を語り明かそうと張り切っていたのに・・・。 つづく |
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